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板倉滉が苦難の海外初挑戦を振り返る
2019年にイングランド1部のマンチェスター・シティへ完全移籍。ただ、ビザの関係もあって、すぐにオランダ1部のFCフローニンゲンへ期限付き移籍となった。かなり慌ただしい移籍だったこともあり、当時の僕は「フローニンゲンってどこ?」というレベル。海外挑戦は、見知らぬ地でのホテル暮らしから始まった。
中学高校の授業は受けていたけど、英語は苦手科目だった。代理人からは「若いうちに英語は始めておいたほうがいい」と、教材やレッスンを紹介してもらったのだが、一切手をつけず。正直、サボってしまった(笑)。しかし、いざフローニンゲンに行ってみたら、通訳はつかず、思っていたよりもハードな状況に。
まずは食事。これが参ってしまった。フローニンゲンという街は、アムステルダムやロッテルダムのような都市部のように、ホテルから数分歩けばレストランがあちこちにあるわけではない。車も持っていなかった僕は、ひたすらホテルのレストランでごはんを食べることに。
メニューは当然、オランダ語か英語。辛うじて、わかる単語はChikhen(チキン)のみ。だから、来る日も来る日も鶏肉料理。ある日、冒険心から当てずっぽうで違うメニューを指さしてみたけど、結果は惨敗だった。
チームとの最初の合流も、選手みんなが参加していた食事の席だった。仏頂面でいるのもなんだから、何かしらコミュニケーションをとろうと、目の前にいるオランダ人選手に話しかけてみた。
「Do you like an apple?(リンゴは好き?)」。中学で習った初歩的な英文がとっさに出てきた。彼はきょとんとしていた。だって、リンゴなんてどこにもない。きっとヤバい日本人が来たと思われていたはずだ。
会話ができないのは、とにかくつらい。当時、チームには(堂安)律がいて、ずいぶん助かったが、四六時中頼りっぱなしというわけにもいかなかった。練習はトップチームに参加していたけれど、週末はU-23チームで遠征に行かされた。
試合に出られないもどかしさ、悔しさ、焦り。3ヵ月ほどたったところで、「もう後がない」とついにダニー・バイス監督のもとへ直談判しに行った。ただひとつ、「どうして僕はトップチームでプレーできないのか?」という英語だけ覚えて。
監督はホワイトボードを使って、丁寧に説明してくれた。うれしかったが、英語で何を言っているのかは、まったくわからない。そこからまた、試合に出られない日々は続いた。
結局、半年たってようやく、試合に出られるようになるけれど、転機はいくつかあった。
ひとつは、クラブから紹介された英会話の先生との出会い。彼女はフローニンゲン郊外に、旦那さん、ふたりの小さい子供と住んでいた。最初は、ホテルのラウンジでレッスンしていたけど、しばらくして「家に遊びにいらっしゃい」と誘ってくれた。
ちょうど、子供たちも英語を覚え始めで、一緒に段階を踏んで勉強できたのがレベルアップにつながった。今や本当の家族のような関係で、引っ越しのつなぎとして、1ヵ月間、部屋を借りたこともある。
もうひとつは、チームメイトとの交流。国内外問わず、どのクラブでも手を差し伸べてくれる選手は必ずいるものだ。当時を振り返り、真っ先に思い浮かぶのは、オーストラリアのフルスティッチ選手。21年のW杯アジア最終予選では、日本代表相手に直接FKを決めたこともある10番の選手だ。僕がまだ英語をしゃべれないとき、自宅に招待してくれて、身ぶり手ぶりのコミュニケーションにも、とことん付き合ってくれた。
映画に誘ってくれたオランダの選手もいた。数人で映画館に行ったけど、オランダ語に英語字幕。ポップコーンを食べる以外、することがなくて結局寝てしまった(笑)。とにかく、どんな誘いも断ることはなかった。たとえ言葉が通じなくても、気持ちは通じるはずだから。
ピッチでもそう。僕は練習の段階から「自分以外は全員敵」くらいの気持ちで、闘志をむき出しにしていた。試合でも、自分はやれるとアピールするためだ。
ある日、ボールがないところで脚を蹴られたので、思いっきりやり返したこともある。そのチームメイトはガチ切れ、殴り合いのけんかになった。律は笑って見ていたけど……。けんかはよくない。でも、プロとしてピッチ上で舐められるわけにはいかない。そこからだった、監督の態度に変化が表れたのは。僕の闘志を感じてくれたのか、次第に出場機会も増えていった。
海外へ行くのに、入念な下準備をするに越したことはない。でも、〝当たって砕けろの精神〟で、とりあえずぶつかってみるのも悪くない。もし、今の僕が当時の僕に声をかけるとすれば……「大丈夫、なんとかなるから」