Jリーグで現役キャリアを終え、引退後に異色キャリアを歩む元J助っ人がいる。川崎フロンターレ、ジェフユナイテッド千葉、湘南ベルマーレなど、日本で6クラブを渡り歩いたブラジル人のパウリーニョは現在、J3松本山雅FCの強化担当スタッフに身を置く。13年半に及ぶJリーグでのキャリアに続き、第2の人生でもなぜ日本と関わり続ける決断を下したのか。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1cfa569deb7811e258ab6e474df98ccbc66a1ef8
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34歳で現役生活に幕、日本での第2の人生を決断
今年3月、松本の本拠地「サンプロ アルウィン」で行われた引退セレモニーで、パウリーニョは涙ながらにスピーチを読み上げた。「僕の日本語は良くない」。会場に集まったファンにこう告げながらも、すらすらと日本語でメッセージを紡ぐ。出てきたのは感謝の言葉の数々。「外から見ると日本人は冷たい、閉鎖的だと言われることもありますが、私が13年半、ここで暮らしてきた中でそんなことはありませんでした」。“日本愛”がどっとあふれた。
初来日は2010年7月に遡る。母国の名門バスコ・ダ・ガマにいたパウリーニョに、栃木SCのスカウトが目を付けた。初対面時のことをパウリーニョは「もともとストライカーを探していたらしかったんですけど、自分のことを見て気に入ってくれて。そこでいろんな話をして、オファーをもらいました」と振り返る。主戦場は中盤だったが、闘争心剥き出しのプレー面はもちろん、真摯にプレーするその人間性を高く評価された。
年俸は当時貰っていた金額とほぼ同額。報酬面だけを考えれば、魅力的なオファーとは言い難かった。実際「お金が良い」という理由で、日本行きを選択する同胞の姿も見てきた。日本に行く価値はあるのか。周りからそうした目で見られてもおかしくなかったが、当時21歳だったパウリーニョは違った。「これはチャンスだ」。日本に行けばきっと良い未来が描けると、信じて止まなかった。
「ガンバ大阪や大分トリニータで活躍したフェルナンジーニョと、実はすごく仲良しだったんですよ。フェルナンジーニョも日本が好きで、日本の良いところをたくさん話してくれました。だから、良いイメージはあったんですよね。当時まだ独身でしたが、付き合っていた今の奥さんも理解してくれました」
南米のラテンの国からアジアの島国へ。母国とは文化も生活環境も全く異なるが、日本の地を踏んでみると、不思議と馴染める感覚があった。出身はブラジル南部のサンタカタリーナ州ブルメナウ。同地はドイツの植民地であった歴史を持つ。規律を重んじ、勤勉で生真面目な性格が特徴というお国柄もあってか、昔から「規律正しかったり、差別も全くない」環境で育ってきた。日本とフィーリングが合ったのは、まさにそうした背景があったからだと、パウリーニョは言う。
「植民地時代の名残りで教育がすごいしっかりしているんです。日本に似通ったところを感じました。それに日本は外国人に対して温かいし、優しい。食べ物にも困らない。外国人から見ると『寿司だけしかない』という感覚かもしれないですけれど、色んなジャンルのものがあって多種多様。魚もあれば肉も食べられる。日本に来た初日から今までずっともう日本のことを愛してますし、自分にとって合う国なんですよ」
もちろん、カルチャーショックがなかったわけではない。日本特有の上下関係、目上の人に対する敬語、ひらがな、カタカナ、漢字といった言語に関するものまで、当初は戸惑った。それでも日本人と接した際の温かさと生活環境に惹かれたパウリーニョには「もうずっとここでサッカーしたいな」という思いが芽生えていた。
加入当時J2の栃木で4シーズンを過ごしたあと、川崎、千葉、湘南、松本、ファジアーノ岡山と渡り歩き、現役最終キャリアを再び松本で過ごした。気づけば13年と6か月。そもそも1つの国に助っ人として長くとどまれる外国人選手は決して多くはない。異例とも言える日本でのプロ生活だが、パウリーニョにとってはごく自然な成り行きだった。
日本では家族も増え、2人の子供を授かった。運にも恵まれ、大好きな異国の地で続いた13年半の現役生活。意を決した21歳での挑戦が、これほどまで長く続くとは当時は夢にも思わなかった。もっとも、日本とフィーリングが合ったパウリーニョに言わせれば、「信じられないような感覚ではない」。日本で明るい未来が描ける。そう信じて母国を飛び出した末に、日本は第2の故郷になった。
現役引退を発表したのは、昨年12月下旬。2022年に岡山から3年ぶりに松本へ復帰し、2年目を終えた頃だった。当時34歳。ベテランの域にあるとはいえ、まだ現役を続けられる年齢ではあったが、全盛期ほどのパフォーマンスができない自分に苛立ちを覚えてもいた。「選手としてのキャリアは終えよう」。そう腹を決め、視線を先に向けた。
「11月に引退を決意していました。あと1か月待てば、現役続行へのオファーが届いたかもしれないんですけどね。ただ身体がもう100%応えてくれなかった。思いどおりのプレーができなかったんです。なので次のキャリアに向けて、徐々に準備はしていました」
“第2の人生”をどう歩むべきか、あらゆる選択肢が浮かんだ。その1つに「松本山雅で仕事をしてみないか」との声も届いた。愛するクラブからの一声に、迷うことはなかった。何ができるのか真剣に考えた末、打診された強化担当スタッフ就任を快く受け入れた。「日本との縁を簡単には切れない」。パウリーニョの胸に、そんな思いが満ちあふれた。
「本当に光栄でしかないです。外国人選手が日本でプロ選手としてのキャリアを終えて、セカンドキャリアとしてJリーグのクラブで働くことってなかなかないと思うので。日本のサッカーはこれからもっともっと発展していくと思いますし、クラブの成長とともに、そうしたことにも携われたらもう最高に幸せなことだと思います」
Jリーグに助っ人選手としてやってきて13年半。日本で現役を終え、そのままクラブの裏方スタッフに転身するというケースは稀だ。“日本愛”がこうした異色のキャリアを生んだ1つであるのは言うまでもない。そんなパウリーニョには、現職を通じてやり遂げたいことがある。
有望な選手を発掘する強化スタッフとしての活動はもちろん、それは母国ブラジル人に対する“悪いイメージ”を払拭すること。母国から日本へやって来る選手には、日本の規律を守り期待どおりの活躍を見せる選手もいれば、独特な文化に馴染めず、自由奔放な振る舞いで孤立してしまう選手の姿も見てきた。日本とブラジルの距離を少しでも縮められればと、その言葉に並々ならぬ熱意を込める。
「日本に来るブラジル人選手の中には、文化の違いからそのキャラクターを理解してもらえなかったり、逆になかなか日本に慣れようとしなかったりするケースも多々ある。そうなるとお互いにギクシャクして悪いイメージがついてしまう。そこを少しずつ改善したいんです。性格的に日本にアジャストできるブラジル人選手ってたくさんいるんですよ。そういう選手を発掘して日本に連れて来たいなと思っています」
日本に“サヨナラ”を言えなかったブラジル人は今、母国を拠点に、松本の強化スタッフとして奔走する日々を送る。「チームに合うような良い選手、能力のある選手を今スカウトしてる段階です。これからセカンドキャリアとして次の結果を違う形で見せなくちゃいけない」。笑顔でそう語ったパウリーニョは、母国と日本との懸け橋となり、第2の人生を歩み始めている。
初来日は2010年7月に遡る。母国の名門バスコ・ダ・ガマにいたパウリーニョに、栃木SCのスカウトが目を付けた。初対面時のことをパウリーニョは「もともとストライカーを探していたらしかったんですけど、自分のことを見て気に入ってくれて。そこでいろんな話をして、オファーをもらいました」と振り返る。主戦場は中盤だったが、闘争心剥き出しのプレー面はもちろん、真摯にプレーするその人間性を高く評価された。
年俸は当時貰っていた金額とほぼ同額。報酬面だけを考えれば、魅力的なオファーとは言い難かった。実際「お金が良い」という理由で、日本行きを選択する同胞の姿も見てきた。日本に行く価値はあるのか。周りからそうした目で見られてもおかしくなかったが、当時21歳だったパウリーニョは違った。「これはチャンスだ」。日本に行けばきっと良い未来が描けると、信じて止まなかった。
「ガンバ大阪や大分トリニータで活躍したフェルナンジーニョと、実はすごく仲良しだったんですよ。フェルナンジーニョも日本が好きで、日本の良いところをたくさん話してくれました。だから、良いイメージはあったんですよね。当時まだ独身でしたが、付き合っていた今の奥さんも理解してくれました」
南米のラテンの国からアジアの島国へ。母国とは文化も生活環境も全く異なるが、日本の地を踏んでみると、不思議と馴染める感覚があった。出身はブラジル南部のサンタカタリーナ州ブルメナウ。同地はドイツの植民地であった歴史を持つ。規律を重んじ、勤勉で生真面目な性格が特徴というお国柄もあってか、昔から「規律正しかったり、差別も全くない」環境で育ってきた。日本とフィーリングが合ったのは、まさにそうした背景があったからだと、パウリーニョは言う。
「植民地時代の名残りで教育がすごいしっかりしているんです。日本に似通ったところを感じました。それに日本は外国人に対して温かいし、優しい。食べ物にも困らない。外国人から見ると『寿司だけしかない』という感覚かもしれないですけれど、色んなジャンルのものがあって多種多様。魚もあれば肉も食べられる。日本に来た初日から今までずっともう日本のことを愛してますし、自分にとって合う国なんですよ」
もちろん、カルチャーショックがなかったわけではない。日本特有の上下関係、目上の人に対する敬語、ひらがな、カタカナ、漢字といった言語に関するものまで、当初は戸惑った。それでも日本人と接した際の温かさと生活環境に惹かれたパウリーニョには「もうずっとここでサッカーしたいな」という思いが芽生えていた。
加入当時J2の栃木で4シーズンを過ごしたあと、川崎、千葉、湘南、松本、ファジアーノ岡山と渡り歩き、現役最終キャリアを再び松本で過ごした。気づけば13年と6か月。そもそも1つの国に助っ人として長くとどまれる外国人選手は決して多くはない。異例とも言える日本でのプロ生活だが、パウリーニョにとってはごく自然な成り行きだった。
日本では家族も増え、2人の子供を授かった。運にも恵まれ、大好きな異国の地で続いた13年半の現役生活。意を決した21歳での挑戦が、これほどまで長く続くとは当時は夢にも思わなかった。もっとも、日本とフィーリングが合ったパウリーニョに言わせれば、「信じられないような感覚ではない」。日本で明るい未来が描ける。そう信じて母国を飛び出した末に、日本は第2の故郷になった。
現役引退を発表したのは、昨年12月下旬。2022年に岡山から3年ぶりに松本へ復帰し、2年目を終えた頃だった。当時34歳。ベテランの域にあるとはいえ、まだ現役を続けられる年齢ではあったが、全盛期ほどのパフォーマンスができない自分に苛立ちを覚えてもいた。「選手としてのキャリアは終えよう」。そう腹を決め、視線を先に向けた。
「11月に引退を決意していました。あと1か月待てば、現役続行へのオファーが届いたかもしれないんですけどね。ただ身体がもう100%応えてくれなかった。思いどおりのプレーができなかったんです。なので次のキャリアに向けて、徐々に準備はしていました」
“第2の人生”をどう歩むべきか、あらゆる選択肢が浮かんだ。その1つに「松本山雅で仕事をしてみないか」との声も届いた。愛するクラブからの一声に、迷うことはなかった。何ができるのか真剣に考えた末、打診された強化担当スタッフ就任を快く受け入れた。「日本との縁を簡単には切れない」。パウリーニョの胸に、そんな思いが満ちあふれた。
「本当に光栄でしかないです。外国人選手が日本でプロ選手としてのキャリアを終えて、セカンドキャリアとしてJリーグのクラブで働くことってなかなかないと思うので。日本のサッカーはこれからもっともっと発展していくと思いますし、クラブの成長とともに、そうしたことにも携われたらもう最高に幸せなことだと思います」
Jリーグに助っ人選手としてやってきて13年半。日本で現役を終え、そのままクラブの裏方スタッフに転身するというケースは稀だ。“日本愛”がこうした異色のキャリアを生んだ1つであるのは言うまでもない。そんなパウリーニョには、現職を通じてやり遂げたいことがある。
有望な選手を発掘する強化スタッフとしての活動はもちろん、それは母国ブラジル人に対する“悪いイメージ”を払拭すること。母国から日本へやって来る選手には、日本の規律を守り期待どおりの活躍を見せる選手もいれば、独特な文化に馴染めず、自由奔放な振る舞いで孤立してしまう選手の姿も見てきた。日本とブラジルの距離を少しでも縮められればと、その言葉に並々ならぬ熱意を込める。
「日本に来るブラジル人選手の中には、文化の違いからそのキャラクターを理解してもらえなかったり、逆になかなか日本に慣れようとしなかったりするケースも多々ある。そうなるとお互いにギクシャクして悪いイメージがついてしまう。そこを少しずつ改善したいんです。性格的に日本にアジャストできるブラジル人選手ってたくさんいるんですよ。そういう選手を発掘して日本に連れて来たいなと思っています」
日本に“サヨナラ”を言えなかったブラジル人は今、母国を拠点に、松本の強化スタッフとして奔走する日々を送る。「チームに合うような良い選手、能力のある選手を今スカウトしてる段階です。これからセカンドキャリアとして次の結果を違う形で見せなくちゃいけない」。笑顔でそう語ったパウリーニョは、母国と日本との懸け橋となり、第2の人生を歩み始めている。
【ニュース】パウリーニョ選手現役引退 及び強化担当就任のお知らせ
— 松本山雅FCオフィシャル (@yamagafc) December 25, 2023
パウリーニョ選手がプロサッカー選手を引退し、2024シーズンから松本山雅FCの強化担当に就任することとなりました。
現役生活、本当にお疲れさまでした👟
来シーズンからもよろしくお願いします‼️
Obrigado PAULINHO🇧🇷… pic.twitter.com/HqMqk4IILD
コメント
ブラジルは日系でも日本に合わないらしいからね
社会共通の道徳観を敷く教育がないらしいけど俄かには信じられないね
今はもう違うけど、数十年前まで日本国内は夜中まで三線、歌、踊りでどんちゃん騒ぎする、時間を守らないとかで迷惑したので沖縄出身者を雇わない、家を貸さないって風潮が強かったのよ
これを差別と批判されていたけど、夜中まで騒がれて困ったのは彼らと関わった周囲の日本人だったと思う
ポリコレが闊歩する時代にブラジル人が沖縄の人みたいに変わってくれるのかな?
いい話だなあと思ってたのにコメ欄が気持ち悪くて残念だわ
パウリーニョは栃木のイメージが強い。良い選手だったなぁ。
気持ち悪い発言してるやつはそもそも日本人なのに日本社会に溶け込めてないやつやから。
外国人が溶け込む姿に嫉妬するのもしゃーない。許したれ。
>日本人なのに
(パスポートの色を見て)本当ぉ?
そうやってどっかの大陸とか半島あたりの連中のせいにしてれば気も楽だよなw
病気だよなもはや
いい記事だなあと思ってコメント欄見たら地獄だった