そのひとり、名古屋グランパスでプレーした元イングランド代表のガリー・リネカーが、英公共放送『BBC』で当時を振り返っている。J誕生から30年、リネカーは日本サッカーの成長を感じつつ、日本に今でも親しみを覚えていると話した。
ワールドクラスの大物が注目を集めた当初のJリーグについて、リネカーは「どのチームも少しのブラジル人を除き、外国人選手は多くなかった」と述べている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/47ab8715669e58d9c72e2a864895e4ea80e60e93
名古屋時代を回想したリネカー
日本におけるサッカー人気の向上を目指した取り組みについては、「マーケティングやファンとの交流のモデルは、野球やアメフトのようなアメリカのスポーツを土台にし、大々的にやっていた。サッカーを人気にするには、できるだけエンタテインメント性が必要と分かっていたからだ」と話した。
「だから、楽しむことが重視された。フェイスペイントや巨大なフラッグ、花火、試合前の大音量の音楽、多くのグッズやチームマスコットなどだ。すべてが派手でカラフル、見たことがなかった。ファンの振る舞い方も本当に新鮮だったよ。みんないつもすごく興奮していたが、誰もが敬意を払ってポジティブだった。イングランドならどこであっても選手が浴びるような罵声もまったくなかった」
当時を知る人なら、その熱狂ぶりを覚えているだろう。リネカーも「観客は主に若い人で、女性のファンが多く、それは見ていて素晴らしかった。叫び声がすごかった」と振り返っている。
「試合だけじゃない。どこに行っても我々は囲まれた。本当にクレイジーだったよ。現役時代はできる限りサインをしていたが、日本では本当に要望がすごかった。その点でも彼らは準備万端だったね。ファンがいつもサインしてもらうための色紙やペンを持っていたのを覚えている」
リネカーは日本サッカー界の努力が実を結んだとみているようだ。「どこに行ってもサッカーはブームで、信じられないほどの関心の高さだった」と続けている。
「Jリーグが始まる前の日本でサッカーがいかに小さな存在だったかを考えたらなおさらだ。人気の面で野球がすごく、サッカーはラグビーや相撲より後れをとっていた。それを変えるのが彼らのミッションだったんだ。完全に新しいスポーツだったから、ターゲットとした30歳以下のファンたちに合った革新が可能だった」
「例えば、決着をつけるためのサドンデスの延長戦やPK戦の導入だ。引き分けも我々のゲームの一部だから、少し奇妙だったけど、どうして彼らがそうしたかは理解している。彼らが試みたことはすべて機能したと思う。試合はすべて完売だった」
コメント
開幕当時はJリーグの試合はプラチナチケットで、これで誘って落ちない女は居ないとまで言われたほどだったな……
『やったねラモズくん』て漫画好きだったけど今考えると信じられないほど失礼だったな。マラドーナの頭には常にうんこのってるし、リネカーは確か試合中も家に帰ることばかり考えてる選手だった気がする(笑)
Jリーグの関係者は非常に努力しているとは思うね。プロリーグとしては成功していると思うよ。